blog 江戸の色恋艶咄

時代劇漫画原作者・篁千夏のブログ

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コラム06:浮世絵と春画の話

《浮世絵はブロマイド》
 日本の浮世絵と言うのは、今で言えばブロマイドのような物であって、その内容は雑多を極めます。美人画から風景画、名所案内、歴史に題材をとった肉筆画もあれば、暦絵と呼ばれる絵入りのカレンダーにも使われ、男女の秘め事を描いた春画まで、ジャンルは雑多です。

 これは当然で、版画として大量生産が可能になった浮世絵は、カメラと写真がなかった時代にはその代替物だったわけです。今日の写真も、大きなジャンルとしては括れてもその内容は雑多で、それこそアイドルの写真集から芸術的な風景画、卑猥なヌード写真まで雑多にございますね。

 ただ重要なのは、江戸庶民にとって浮世絵は大衆文化であって、けして高尚な芸術ではなかったと言うこと。もちろん、葛飾北斎などは芸術的な肉筆画を残しており、また後世に残すための障壁画なども描いていますが、それは大衆のために制作されたものとは、また違いますしね。

 江戸庶民にとっては、浮世絵は読み捨てる物であって、価値があるとは思われていませんでした。そのため、海外への陶磁器の輸出需要が高まると、その陶磁器が運搬中に割れないように、クシャクシャに丸めて、箱の隙間に詰める役目を負わされたわけですね。


《浮世絵の衝撃》
 ところが、日本の陶磁器を楽しみにしていた欧米の上流社会の人間は、その丸めた紙屑を拡げて見て、驚いた訳です。大胆な構図に、対象をあえて誇張した表現。ビビッドでありながら調和の取れた色彩。余白を大胆に活かした簡潔さと細密に描き込まれた部分が同居する調和の美。

 欧米の絵画文化とは隔絶したその美に、衝撃を受けたのは想像に難くありません。それまでの日本では、舶来上等で中国や朝鮮からの絵画が好まれ、雪舟水墨画などがいわゆる『高級な絵』として珍重されており、その価値を日本人自身が気付いていなかったのですね。

 もちろん、雪舟水墨画は今日でも価値がありますし、素晴らしい作品ではあります。しかし、世界の絵画史として巨視的に見た場合、東アジアの中国文明圏の絵画を、日本人が模倣して取り入れた物であり、その系譜の中に位置づけられる物です。しかし、浮世絵は日本独自の芸術です。

 これは、朝鮮半島ではただの日用雑器であった井戸茶碗に、日本の茶人が素朴な中にも飽きがこない力強さや美を、そこに見いだしたのに似ているでしょうか。印籠を腰帯に引っ掛けるための根付けも、海外で評価されて、出来の良い物は幕末から明治に海外流出してしまいました。


春画と有名画家》
 春画は地下出版でしたから、現代で言えばエロ本に当たる物です。儒教朱子学を官学とする江戸幕府においては、庶民を欲情させるような物は風紀を乱すとして、取り締まりの対象です。何しろ、時代劇ではおおっぴらに売っている瓦版でさえ、実際は禁止されていたぐらいです。

 しかし、地下出版が儲かるのは、世の常です。春画も、大衆向けの一般的な浮世絵よりも多色で刷り上げて、高値で販売していました。それだけ実入りがいいのですから、高名な浮世絵画家は皆、春画を書いています。春画を描いていない有名な浮世絵師となると、東洲斎写楽ぐらいでしょうか。

 大衆の物であった浮世絵の中で、なおかつ卑猥な物とされてきた春画ですが、今日では芸術的な価値が高く評価されており、浮世絵コレクターには必須のジャンルとなっています。芸術に対する世の評価と言う物は、時代とともに変化するもののようですね。

 昭和四十年代には、漫画は悪所として槍玉に挙がり、小学校の校庭で手塚治虫の漫画が燃やされるという、まさに『焚書』扱いになった時期もあるのですが、現在は図書週間の推薦本に漫画が含まれるようになったように、たった数十年で時代は変わるようでございます。


春画北斎と応為》
 前述したように、浮世絵画家はほとんどが手を染めていますが、春画は技術を磨く場でもあったのでしょう。ここら辺は、現在活躍している映画監督が、若い頃はポルノ映画で経験を積み、腕を磨いたのに似ていますね。もっとも浮世絵師は、有名になってからも春画を書き続けていますが。

 映画といえば、先日亡くなられた緒形拳主演・新藤兼人監督『北斎漫画』という作品がございます。本作ではデビュー間もない田中裕子さんが北斎の娘のお栄を演じており、この演技が認められて日本アカデミー賞最優秀助演女優賞と新人俳優賞などを受賞しています。

 このお栄、後に父親の跡を継いで浮世絵師になります。号を葛飾応為といいますが、これは父親の北斎がお栄に用事がある時に「おーい」と読んで声を掛けていたため、その洒落で付けたとされます。結婚しますが後に離婚して、親子で浮世絵の作画に励みました。

 葛飾応為の作品としては『三曲合奏図』や『吉原格子先の図』など、女性を描いた作品に傑作が多く、北斎美人画とはまた違った味わいがあります。合作もしていたようですから、北斎の描いた春画の中にも、ひょっとしたらお栄の代筆が含まれていた可能性も、捨てきれませんね。


■宣伝でございます■ 当コラムはリイド社刊の月刊コミック乱に掲載された漫画『浮世艶草子(八月薫作画)』の単行本第2巻収録の[枕草子]の回に付随したコラムを再録したものです。これを大幅に加筆・修正したコラム集が、電子書籍『江戸の色恋艶咄』となって発売中ですので、ご興味のある方は下記リンクをクリック願います。

    

コラム05:相撲にまつわる四方山話

《相撲のルーツ》
 相撲は日本の国技とされますが、これは国家や国旗や国鳥とは違って、正式に決められたものではありません。しかしながら、特別な道具も要らずに身体ひとつでできるスポーツであり、また神事と結びついて現在でも各地の神社などで奉納相撲として行われております。

 もともとはその年の吉兆や豊作を占う神事だったようで、東方力士が勝てば五穀豊饒、西方力士が勝てば大漁といった具合で、どっちが勝っても縁起が良いように設定されておりました。なので、最初から勝敗を決めて一種の演武として奉納されることもしばしばあったようです。

 相撲のような組み技系格闘技は世界中に見られ、その国の風土や民族の特性に合った形で発達しています。日本の場合は、日本書紀の中の出雲の国譲りの場面で、建御雷神と建御名方神という神様が力比べをするシーンがあります。この時、建御名方神は建御雷神の腕をつかもうとします。

 相撲は『角觝』や『角力』とも書きます。相撲界を角界と呼ぶのは、これに由来します。古くは『手乞』という異称もあったとされます。今日の合気道などの武道でも、相手の手首をつかむ技が豊富にありますから、神話ではありますが古代の肉弾戦の姿を、一部伝えているように思えます。


《土俵や仕切り線は新しい文化》
 現在の相撲では、仕切り線があってそこで仕切りますが、昔の相撲はそうではなかったようです。ここら辺、あまりに当たり前のことは記録する価値がないため、資料に残されないことが多いのです。江戸時代の相撲絵も、ガップリ組んだ絵は残されていますが、仕切り中の絵はないです。

 明治時代の古い写真では、仕切り線がなく、力士は土俵に手をついて、頭と頭が触れた状態で仕切っている姿が残されています。韓国のシルムなど、組んだ状態から始まる組み技格闘技も世界中にありますから不思議ではないですけどね。昔は距離制限がなく、遠く仕切ってもよかったようです。

 ちなみに、織田信長が身体を鍛えるためと余興のために盛んに行わせた相撲は、大きな丸太の両端を抱えた状態から始まるもので、土俵はなくどちらかが倒れたら負けというものだったようです。今日みられる土俵や仕切り線といった様式は、相撲の歴史からみると比較的新しい文化です。

 相撲は神事であり、豊饒のシンボルでもありましたから、筋骨隆々として適度に太った肉体が理想的とされます。これは、力士の肉体が女性的な豊饒のイメージを体現しているからであるという指摘もあります。土俵の上が女人禁制なのも、男が女を演じる場だからかもしれませんね。


《女性と相撲の歴史》
 しかしながら、女相撲というのは実は昔からあり、村祭りで女相撲がよく行われていたそうですから、格式とか伝統をうるさく言うようになったのは、むしろ近代になってからのようです。また、大力の女性が男と相撲を取って勝ったという逸話も、多くの文献に残されています。

 今昔物語には、大井光遠の妹の逸話が描かれています。強盗の人質になったこの妹、近くにあった矢柄を板敷きに押しつけて、パキパキと押しつぶしてしまったとか。余りの強力に強盗、逃げ出したそうです。大井光遠、妹が男だったら最手(現在の横綱)にもなれたのにと、惜しんだとか。

 ちなみに、モンゴル相撲(ブフ)では、胸が大きく露出したゾドクというベスト状の衣装を上半身に着けますが、これはかつて女性が大会に参加し、優勝してしまったため、再発防止ためにこういう形になったという伝説があります。どこの国にも、相撲が強い女性はいるようですね。

 江戸時代になると、職業力士が誕生して、相撲自体は隆盛します。特に、実質横綱第一号(公式には四代)の二代目谷風梶之助が出て、ライバルの小野川喜三郎と名勝負を繰り広げました。初代の谷風梶之助が活躍した元禄時代は、まだまだ相撲人気も今ひとつだったようです。


《昭和まで続いた女相撲
 この時代を代表する作家が、女相撲について書き記しています。井原西鶴は『色里三所世帯』の中で、遊里で芸妓に下帯(廻し)つけさせて、相撲をさせています。面白いのは、西鶴の描写を読むと当時既に勧進相撲を真似て、土俵や四方の柱などを設置しています。

 明和年間(一七六四〜一七七二)になると、女相撲が大流行します。女相撲は見せ物の要素が強く、相撲の取り組み以外にも力技のデモンストレーションをいろいろやったようです。エロティックな要素もあったため、幕府からは度々禁止令が出されますが、復活を繰り返します。

 明治時代になると、諸外国の批判を気にしてか、政府はやはり女相撲を禁じますが、東京や大阪を始め、各地で興行団体(一座)が結成されて、各地で興行を行ったようです。ここら辺になると、多くの絵画や神社に奉納された絵馬、写真資料などが残されています。

 女相撲は昭和の時代まで活動を続け、それどころか昭和五年(一九三〇)には、なんとハワイ巡業まで行っています。明治十八年(一八八五)以降、ハワイには多くの日本人が移民として移住していましたから、こういう興行も可能だったのですね。このような女相撲の興行団体は、戦後まで活動します。


■宣伝でございます■ 当コラムはリイド社刊の月刊コミック乱に掲載された漫画『浮世艶草子(八月薫作画)』の単行本第2巻収録の[女相撲]の回に付随したコラムを再録したものです。これを大幅に加筆・修正したコラム集が、電子書籍『江戸の色恋艶咄』となって発売中ですので、ご興味のある方は下記リンクをクリック願います。

    

江戸切子の話

本日は江戸情緒を感じさせる、江戸切子について、軽く。

 江戸切子協同組合  

わが国での製作は天保5年(1834年)に、江戸大伝馬町のビードロ屋加賀屋久兵衛が金剛砂を用いてガラスの表面に彫刻したのが初めてと伝えられています。明治6年1873年)、品川興業社硝子製造所(現在の品川区北品川4丁目)が開設され、明治14年には切子(カット)指導者として英国人エマニエル・ホープトマン氏を招き、十数名の日本人がその指導を受け、現代に伝わる江戸切子の伝統的ガラス工芸技法が確立されました。この頃からカット技術の進歩とガラス器の普及により、切子が盛んに作られるようになり、大正時代になるとカットグラスに使われるガラス素材の研究や、クリスタルガラスの研磨の技法が開発されるなどして、江戸切子の品質はさらに向上していきます。大正時代から昭和初期にかけて工芸ガラスといえば「カットガラス」といわれるほど急速に、かつ、高度の発展を遂げ、わが国における第一次の全盛時代を迎えました。そして江戸切子は昭和60年に東京都の伝統工芸品産業に指定、平成14年には国の伝統的工芸品にも指定されるに至りました。
江戸切子の将来としては、かつてないガラス工芸発展の時代に、美しさと品質を追求したガラス工芸品として江戸切子の伝統を長く保存育成する事を目指しております。 

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コラム04:吉原のホントとウソ

《おさわり禁止の吉原》
 江戸の性風俗といえば、幕府公認の遊廓である吉原を抜きにして語ることはできません。といっても本作はあくまでもエンターテイメント作品ですから、実際の吉原の姿とはいろいろな点が違いますので、漫画に描かれていることは全部が真実ではないので、注意していただきたいところです。

 例えば遊女は性行為の最中も、服は基本的に脱ぎません。現在残されている春画の多くが、服を着たまま性行為に及ぶ女性の姿です。遊女が脱ぐのは本当にほれた相手、間夫と呼ばれる男性だけで、それでは視覚的に楽しくないので、本作の中ではしばしば玉の肌を露にしていますけれども。

 また、作品の中では遊女に対して男性が愛撫するシーンがありますが、実際の吉原では男性は遊女の身体へのタッチは禁止で、ひたすら遊女の繰り出す淫戯を受ける立場に徹さなくてはなりませんでした。もし無理に手を出すと、遊女出会っても客を振る(断る)ことができました。

 性的反応を示さない女性や、または男性に一方的な愛撫をさせる自分は何もしない女性のことを、一般に『マグロ女』などといって揶揄しますが、吉原では男性がマグロになることが要求されたんですね。遊女は様々な手技や口技を駆使して客の男を絶頂に導くのでございます。


《英才教育の吉原》
 漫画でもちょっと触れていますが、遊女の多くは七歳から八歳ぐらいで吉原に連れてこられて、そこで先輩の遊女(姉女郎)に付き人として従い、吉原の作法や芸事を学びます。この幼女を禿と呼びますが、これは日本伝統のおかっぱ頭の髪形を禿と呼んだことから由来します。

 もっとも吉原の禿は、残された浮世絵や幕末の写真などを見ますと、おかっぱ頭ではなく、髪飾りをつけた島田髷(高島田)です。この髪形は俗に禿島田と呼ばれたようです。将来性があると認められた禿は、遊女の最高位である太夫となるべく妓楼の主人から直接に英才教育が施されました。

 作中のように、借金のカタに遊女になったような突き出し女郎が、小見世から中見世に移ることはままあったようですが、太夫になるようなことは、実際はありませんでした。太夫には茶道や和歌といった高い教養も求められたため、英才教育が必要だったのです。

 ではなぜ英才教育が必要だったかといえば、吉原の太夫やその下の格子などの遊女は、江戸幕府評定所に接待に出掛ける義務がありました。もちろん、性的なサービスをする訳ではなく、会話を楽しんだりことや三味線のような芸事を披露したり、時には囲碁などの相手もしたようです。


《高級官僚を相手にした花魁》
 現代で言えば、高級官僚相手に接待しなければならないような物ですから、必然的に武士の文化に対する教養が必要になります。有名な古典一通りの知識教養はもちろん、和歌を詠む能力も求められます。せっかくの和歌も、字が下手では短冊に書くこともできませんから、書道も嗜むのです。

 吉原角町の松葉屋(半蔵松葉)の粧という花魁は、二代目が能書家として知られています。現在も二代目粧が筆を取った歌碑が、今でも浅草神社に残されています。
 ほのぼのと明石の浦の朝霧に
 島がくれゆく舟をしぞ思ふ

これは柿本人麻呂の和歌です。

 現代でも、銀座の一流ホステスは、まず朝刊各紙を隅々まで読み、経済誌などにも目を通して、政財界の重鎮が店に来た時に話題にちゃんとついていけるように、日々修練しているそうですが、それに似ていますね。太夫は吉原全体でも数名しかいませんから、超のつく一流ですね。

 このような存在ですから、太夫というのは別名『大名道具』と呼ばれ、庶民とは無縁の存在です。実際、身請けするのも大名や大商人が多く、小浪花節や落語の『紺屋高尾』で有名な、染め物屋に嫁したとされる五代目高尾大夫も、実話だとする説と脚色説があります。


《花魁の定年は27歳》
 姉女郎の付き人となって学んだ禿は、十四歳ぐらいになると新造と呼ばれる見習い遊女になります。見習いなので、まだ客を取ることはなく、接客方法を姉女郎から学んだり、また姉女郎が他の客と約束がバッティングして時に、時間潰しのために話し相手をします。

 将来性が期待される禿は、姉女郎の手を離れて楼主から英才教育を施されるのですが、これを引込禿と呼びます。英才教育が施される間は、客の前からいったん姿を消すので、この呼び名があります。新造や引込禿は十六歳から十七歳ぐらいで初めての客を取って、水揚げとなります。

 遊女は二十七歳が定年とされていましたから、だいたい十年ほど吉原で働くことになります。中近江屋の遊女半太夫は、引退後に友人と語らっている折り、達磨大師は壁に向かって九年間座禅して悟りを開いたという話題が出た時、遊女は苦界十年ですと、笑って切り返したとか。

 もちろん、若くして身請けされる幸運な遊女もいれば、歳を取っても前借金が返せなかったりして、切見世と呼ばれる安価な最下層の見世に移って働く遊女も多くいました。性病に関する知識も乏しかった時代、若くして亡くなった遊女も多く、二十代前半で命を落とす者も数多くいました。


■宣伝でございます■ 当コラムはリイド社刊の月刊コミック乱に掲載された漫画『浮世艶草子(八月薫作画)』の単行本第2巻収録の[吉原細見]の回に付随したコラムを再録したものです。これを大幅に加筆・修正したコラム集が、電子書籍『江戸の色恋艶咄』となって発売中ですので、ご興味のある方は下記リンクをクリック願います。

    

コラム03:江戸の密通事情

《江戸のデリバリー文化》
 江戸は物売り、現在で言うところの宅配(デリバリー)がとても発達した都市でした。もちろん店を構えている店も、呉服屋や米屋など数多くありましたが、基本的には物売りがお得意先を巡回したり、町内を流したりして販売する方法が多く、家に居ながらたいがいの物が手に入りました。

 朝は朝食にする納豆や豆腐、シジミ売りなどがやってきますし、魚売りも天秤棒を担いで売りに来ます。それどころか、頼まれれば持参している包丁と俎板で魚を三枚におろしたり刺し身にしたりします。これは、現在でも築地などの魚市場で、頼めばやってくれる店が多くあります。

 春先には家庭菜園用の苗を売りに来るもの、夏になれば冷や水売りや金魚売り、風鈴売りがやってきて、秋口には鬼灯売りや冬には炭団売りと、季節に合わせてさまざまな物売りがやってきます。今日の宅配文化も盛況ですが、江戸時代に比べればまだまだですね。

 便利な宅配ですが、江戸では密通に発展する時もありました。江戸時代も前半までは、男女比が極端に偏っており、女性が大変少なかったため、一生結婚できない男性も多く、そのために吉原のような遊廓や、非公認の私娼地である岡場所が、品川・深川・築地・内藤新宿などで繁昌しました。


《江戸の不倫事情》
 こういう状態ですから、結婚できた男は女房をたいへん大事にします。また、当時は共働きという考えは少なく、亭主は女房を養って一人前と考えられていましたから、亭主が仕事で家を出たら、女房は家の仕事を終えたら昼からお酒を飲んで過ごす、なんてことも多かったとか。

 魚屋が通りかかったら、刺し身を作ってもらったついでに、好い男なら家の中に引っ張り込んで不義密通、なんてことも。当時はわざわざ布団を敷くなんて面倒くさいことはせず、衝立の陰でコッソリ……なんてお手軽な不倫が、多かったようでございます。

 落語に『紙入れ』という演目があります。貸本屋の若者が、出入り先の女房に誘惑され、ついフラフラと家の中に上がり込んだところで亭主が急に帰宅、慌てて逃げ出すが、その亭主から以前もらった紙入れを置き忘れてしまい、貸本屋は翌日恐る恐る取りに行くと……という内容です。

 紙入れは、機転の利く女房が先に見つけて隠し、事無きを得ます。落語の中では明確には言及されませんが、どうもこの女房、若い衆を何度も引っぱり上げて、つまみ食いをしている雰囲気。この噺の原話が安永三年(一七七四)に刊行された『豆談義』に収録されているそうでございます。


《江戸のナンパ事情》
 間男(密夫)をネタにした艶笑噺は、他にも数多く残されていますから、町人文化が成熟した元禄時代以降、このようなお手軽な不倫は、日常茶飯事だったようです。というか、不倫という概念自体が近代以降に輸入されたもの。それだけ当時の日本は、性におおらかな文化だったとも言えます。

 井原西鶴の『好色五人女』や近松門左衛門の『五十年忌歌念仏』で題材にした、姫路の宿屋但馬屋の娘お夏と手代の清十郎が駆け落ちしようとしたという実話に題材を撮っています。内容には脚色がありますが、どちらもお夏の方が積極的に清十郎にアタックしています。

 この二人の物語は、よほど人口に膾炙したのか、後水尾天皇までが俳句にされています。
 清十郎きけ 夏が来たとて 杜宇
ホトトギスという鳥は初夏になると日本に渡ってくる渡り鳥であったため、季節と女性の名前を掛けているんですね。

 女性は慎み深く控えめで……という価値観は、どうも江戸時代には当てはまらないようです。男から女性に声を掛けるのは自惚れと思われ、むしろ女性から男性に声を掛けるのが一般的だったようです。西鶴は関西の文人でしたから、江戸も上方も事情は同じだったようで。


《江戸の示談事情》
 いちおう武士の時代でしたから、不義密通はお家のご法度とされますが、それは武家では家を継ぐことが重視されたからで、大きな商家とかならともかく、庶民の世界ではそれほどでもなかったようです。建て前上は、間男は不義の妻と重ねて四つに斬っていいとされましたが。

 実際は間男が発覚したら、だいたいはお金で解決していたようです。示談金の相場は七両二分。なぜこんな中途半端な金額かといえば、昔は大判一枚が相場だったのだとか。大判は小判十枚の価値とされましたが、実際の流通では七両二分の価値として流通していたのです。

 一両を現代の金額で幾らに換算するかは、諸説あります。米の価格から換算する方法や、大工の手間賃から換算する方法などさまざまですが、安い説で四万円程度、一般的には七万円程度、高い説では25万円程度がありますから、示談金は三〇万円から五〇万円程度と考えていいでしょうか。

 作品の中では小間物屋が、枕絵や張型も販売していますが、このようなオマケの販売はごく普通だったようで、夏の風物詩の金魚売りも、沢蟹も売ったりしていました。商い先でのエッチにも、ちゃんと代金が払われたそうですから、裏サービスの一環と認識されていたのでしょうね。


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コミック乱TWINS2019年6月号のお知らせ

令和最初のコミック乱TWINSは、5月15日発売でございます。
『はんなり半次郎』も掲載されておりますので、是非お見かけの際には、よしなに。

内容もチラ見せでございます。

コラム02:江戸庶民と舟

《江戸のカーセックス》
 船を使った私娼を『舟饅頭』と呼びます。一般的な私娼である夜鷹に比較して、船を使う分だけ料金も割高ですが、船というシチュエーションが受けたのか、けっこう繁盛しました。夜鷹の料金がだいたい二十四文の時代に、舟饅頭は三十二文したといいますから、けっこう割高ですね。

 舟饅頭は現在ならば、さしずめカーセックスでしょうか。もっともこの場合は、川岸に止めた船ではなく、動いている船でいたします。当然、船を操作する船頭が必要になりますね。これはだいたい、舟饅頭の夫が務めたとされます。夜鷹も夫が用心棒代わりにことが多かったとか。

 妻が春を売る傍らで船を操作する、その心中いかばかりかと思いますが、五代目古今亭志ん生の名演で知られる『お直し』という落語は、生活に困った夫婦が妻を娼婦にし、夫が呼び込みをやる姿が描かれています。意外と江戸の庶民は精神的にたくましかったようですね。

 明和年間(一七六四〜七二年)になると、舟饅頭を御千代と呼ぶようになります。千代という色白でポッチャリした舟饅頭が評判となり、代名詞になったためです。彼女らが使う船も御千代舟と呼ばれるようになりました。梅毒で足腰が立たない舟饅頭も多く、客もリスクが高かったようです。


《江戸の輸送事情》
 江戸の街は本来、葦原の低湿地帯だったところです。昔は江戸城の近くまで海が迫っていたのを、徳川家康が入府して以来、山を切り崩して湿地や海を大規模に埋め立て、今日の形が作られました。このため、昔は海だったころの名残が、今でも『汐留』などの地名として残っています。

 江戸の町は各地に掘割が張り巡らされ、船を使った輸送がとても発達しました。昔の商業都市は海運が発達した場所でないと、発展は望めません。『江戸八百八町』と言いますが、天下の台所と言われた大坂は『大坂八百八橋』と言って、海運が発達していたことがわかります。

 船は浮力を利用するために、たくさんの荷物を一度に大量に運ぶことができます。また、船を動かすための動力と燃料は飛行機よりもはるかに小さくてすみます。このため、飛行機が発達した今日でも、タンカーなど大型の船舶による物資の輸送は欠かせない存在になっております。

 時代劇では駕籠に乗って移動する姿がよく見られますが、実際の江戸の町では、目的地によっては船の方がよく利用されました。この船も、定期便の渡し船から、スピード重視の猪牙船、雨が降っても大丈夫な屋根船、日除け船など、様々な種類がありました。


《江戸の舟あれこれ》
 船は横幅が広くなると、水の抵抗が増してスピードが落ちます。猪牙船は柳葉のような細長い形で、小回りが利きスピードも出ました。このため、吉原に行く粋人がよく使用しました。しかし横幅が狭いと当然、左右に揺れやすく、不安定です。慣れないと立ち上がることも難しかったそうです。

 このため『猪牙で小便千両』などと言われたそうです。不安定な猪牙船でも平気で小便ができるほどに慣れるには、遊びに千両ぐらいの金を注ぎ込まないといけない、という意味だそうです。いつの時代も、遊びにはそれ相応の授業料が必要だったようですね。

 暑い夏の日に、船で花火見物なんて風情があります。川面を撫でる風が心地良く、気がついたらそのまま屋根付きの船の障子を閉めて、灯りを消して睦み合う男女……なんてシチュエーションが目に浮かびそうです。屋根付きの船を屋形船と呼びますが、正確には屋根船と呼ぶべき物です。

 時代劇の影響でしょうか、屋形船が定着してしまっていますね。通常の船に屋根をつけた物だから屋根船。では屋形船とはいったいどんな船でしょうか? 屋形船は大人数が乗れる船で、まさに館が船になった物です。男女がコッソリ睦み合うならこっちの方でなくてはいけません。


《江戸の御大尽と屋形船》
 乗り込める人数も多く、庶民がおいそれと使用できるような物ではありません。お金持ちが芸者や太鼓持ちを引き連れて使用しました。例えば春、隅田川の川縁の桜が満開になった頃、夜桜見物と洒落込む時などに。古典落語にも、屋形船が登場するシーンが数多くあります。

 『汲み取り』という落語は、三味線の女師匠が弟子の男とできて、屋根船でしっぽりと楽しもうとするのを、振られた他の弟子が邪魔しようとする内容です。その邪魔する手段が、いろんな鳴り物をいっせいに鳴らして、ムードをぶち壊しにしようという方法です。

 しかし、師匠と弟子が乗った船を追いかけようにも適当な屋根船がなく、仕方がないので数隻の猪牙船に分散して乗り込み、追いかけるという展開です。ところが、前述したとおり、スピードは出ても幅が狭く多人数は乗れない猪牙船に、定員オーバーの人数で乗り込みます。

 当然の事ながら、座るスペースがないので全員立って乗り込むという、馬鹿馬鹿しい展開です。現在は公園のボートや遊園地のスワンボートぐらいしか、手漕ぎ船に乗る機会はないですが、江戸庶民にとっては、いかに船が身近であったか、よくわかる噺ですね。


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