blog 江戸の色恋艶咄

時代劇漫画原作者・篁千夏のブログ

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コラム05:相撲にまつわる四方山話

《相撲のルーツ》
 相撲は日本の国技とされますが、これは国家や国旗や国鳥とは違って、正式に決められたものではありません。しかしながら、特別な道具も要らずに身体ひとつでできるスポーツであり、また神事と結びついて現在でも各地の神社などで奉納相撲として行われております。

 もともとはその年の吉兆や豊作を占う神事だったようで、東方力士が勝てば五穀豊饒、西方力士が勝てば大漁といった具合で、どっちが勝っても縁起が良いように設定されておりました。なので、最初から勝敗を決めて一種の演武として奉納されることもしばしばあったようです。

 相撲のような組み技系格闘技は世界中に見られ、その国の風土や民族の特性に合った形で発達しています。日本の場合は、日本書紀の中の出雲の国譲りの場面で、建御雷神と建御名方神という神様が力比べをするシーンがあります。この時、建御名方神は建御雷神の腕をつかもうとします。

 相撲は『角觝』や『角力』とも書きます。相撲界を角界と呼ぶのは、これに由来します。古くは『手乞』という異称もあったとされます。今日の合気道などの武道でも、相手の手首をつかむ技が豊富にありますから、神話ではありますが古代の肉弾戦の姿を、一部伝えているように思えます。


《土俵や仕切り線は新しい文化》
 現在の相撲では、仕切り線があってそこで仕切りますが、昔の相撲はそうではなかったようです。ここら辺、あまりに当たり前のことは記録する価値がないため、資料に残されないことが多いのです。江戸時代の相撲絵も、ガップリ組んだ絵は残されていますが、仕切り中の絵はないです。

 明治時代の古い写真では、仕切り線がなく、力士は土俵に手をついて、頭と頭が触れた状態で仕切っている姿が残されています。韓国のシルムなど、組んだ状態から始まる組み技格闘技も世界中にありますから不思議ではないですけどね。昔は距離制限がなく、遠く仕切ってもよかったようです。

 ちなみに、織田信長が身体を鍛えるためと余興のために盛んに行わせた相撲は、大きな丸太の両端を抱えた状態から始まるもので、土俵はなくどちらかが倒れたら負けというものだったようです。今日みられる土俵や仕切り線といった様式は、相撲の歴史からみると比較的新しい文化です。

 相撲は神事であり、豊饒のシンボルでもありましたから、筋骨隆々として適度に太った肉体が理想的とされます。これは、力士の肉体が女性的な豊饒のイメージを体現しているからであるという指摘もあります。土俵の上が女人禁制なのも、男が女を演じる場だからかもしれませんね。


《女性と相撲の歴史》
 しかしながら、女相撲というのは実は昔からあり、村祭りで女相撲がよく行われていたそうですから、格式とか伝統をうるさく言うようになったのは、むしろ近代になってからのようです。また、大力の女性が男と相撲を取って勝ったという逸話も、多くの文献に残されています。

 今昔物語には、大井光遠の妹の逸話が描かれています。強盗の人質になったこの妹、近くにあった矢柄を板敷きに押しつけて、パキパキと押しつぶしてしまったとか。余りの強力に強盗、逃げ出したそうです。大井光遠、妹が男だったら最手(現在の横綱)にもなれたのにと、惜しんだとか。

 ちなみに、モンゴル相撲(ブフ)では、胸が大きく露出したゾドクというベスト状の衣装を上半身に着けますが、これはかつて女性が大会に参加し、優勝してしまったため、再発防止ためにこういう形になったという伝説があります。どこの国にも、相撲が強い女性はいるようですね。

 江戸時代になると、職業力士が誕生して、相撲自体は隆盛します。特に、実質横綱第一号(公式には四代)の二代目谷風梶之助が出て、ライバルの小野川喜三郎と名勝負を繰り広げました。初代の谷風梶之助が活躍した元禄時代は、まだまだ相撲人気も今ひとつだったようです。


《昭和まで続いた女相撲
 この時代を代表する作家が、女相撲について書き記しています。井原西鶴は『色里三所世帯』の中で、遊里で芸妓に下帯(廻し)つけさせて、相撲をさせています。面白いのは、西鶴の描写を読むと当時既に勧進相撲を真似て、土俵や四方の柱などを設置しています。

 明和年間(一七六四〜一七七二)になると、女相撲が大流行します。女相撲は見せ物の要素が強く、相撲の取り組み以外にも力技のデモンストレーションをいろいろやったようです。エロティックな要素もあったため、幕府からは度々禁止令が出されますが、復活を繰り返します。

 明治時代になると、諸外国の批判を気にしてか、政府はやはり女相撲を禁じますが、東京や大阪を始め、各地で興行団体(一座)が結成されて、各地で興行を行ったようです。ここら辺になると、多くの絵画や神社に奉納された絵馬、写真資料などが残されています。

 女相撲は昭和の時代まで活動を続け、それどころか昭和五年(一九三〇)には、なんとハワイ巡業まで行っています。明治十八年(一八八五)以降、ハワイには多くの日本人が移民として移住していましたから、こういう興行も可能だったのですね。このような女相撲の興行団体は、戦後まで活動します。


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